歴史を今に紡ぐ
那古野のルーツをさかのぼると 約400年前の名古屋城築城に行きつきます。「清州越」で移り住んできた商人たちが行き交う、それは活気あふれた城下町だったと伝えられています。 いま、当時の面影を残す街並みは数えるほどですが 積み重ねられた有形無形の文化は現在の住人に紡がれ、歴史とモダンがとけ合う、つぎの那古野が生まれています。江戸時代からつづく時間の流れに身を委ねながら、この地で芽吹き、後世に繋がるあらたな文化をお楽しみください。
四間道・美濃路
徳川家康の命によって名古屋が開府されることとなり、それまでの尾張の中心であった清須から名古屋に街ごと遷府が行われた「清須越し(きよすごし)」。その際、堀川沿いに新たに城下町が造られ商人町が形成されますが、元禄13年(1700)、大火で1649軒の町屋と15の寺社が焼失。
尾張藩4代藩主の徳川吉通は、火災から町を守るため堀川沿いにある商家の裏道幅を4間(約7m)に拡張し、火事に強い土蔵造りの街並みを整備。その道幅から四間道(しけみち)と呼ばれるようになった。四間道の東の筋には「美濃路」が通り、伊藤家住宅や五条橋などがある。その後、戦災もくぐり抜け、江戸時代の街並みが今も残されている。
城下町は計画的に作られ、身分により居住地を分割。堀川の両側には、水運を利用する商家が立ち並び、物資の積み降ろしを行うため商家の玄関は堀川側を向き、土蔵は家の裏手に建てられました。堀川に沿う形で土蔵が立ち並ぶ四間道は、こうしてできたもので、昭和61年(1986)に名古屋市町並み保存地区に指定されています。
伊藤家住宅
伊藤家は慶長19年(1614)に移住した清須越十人衆の商人で、現在の伊藤家は分家にあたり、享保7年(1722)現在地に移住。松坂屋の始まりである伊藤家と区別して川伊藤家と呼ばれます。堀川端の川岸蔵、居宅、四間道に面した家財蔵と3種の建物が残り、堀川商家の典型を残すものとなっている。江戸中期の住居と元禄期の防火建築の典型の土蔵は、昭和62年(1987)に愛知県指定文化財に指定されています。
屋根神様
その名のとおり屋根に祭られている神さま。疫病や火災などから身を守るために、庶民の祈りを込めて創られたとされる。屋根の上に祭る形態は名古屋独特のもの。祭神は津島神社・秋葉神社・熱田神宮。家屋の一階ひさし屋根や、軒下などに設置され、町内や隣組といった地域の小組織で祭祀(さいし)を行います。住宅開発が進む現在では、屋根から下ろしている所もあります。
子守地蔵尊
150年ほど前の安政の頃、井戸を掘っていたところ、地中から約30センチのお地蔵さまが出てきました。お地蔵さまには「宝永七年」という刻銘があり、それよりさらに150年も前に作られたものでした。洪水の際に流れて埋もれたと推測され、偶然に井戸を掘った場所から出てきたのは、お地蔵さまの掘り出して祀ってほしいという意志がそうさせたのだと信じられており、1895(明治28)年には御堂も建てられ、今も大切に保存されています。毎年8月23日と24日には大祭が行われます。
浅間神社
木花開耶姫命を主祭神とする古社。四間道の南端にある浅間神社の建立時期は、1844(天保15)年に書かれた「尾張志」によると、1647(正保4)年にこの地に遷されたと記録されている。四間道を整備するきっかけとなった元禄の大火よりも前からこの地にあることになり、遷された当時からある樹齢300年を越える7本のクスノキとケヤキに覆われた境内は静けさに包まれ今も街を見守り続けています。毎年10月1・2日には大祭が行われます。